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沿革

いつつのやしろ

「雑訴決断所牒」(伏見稲荷大社蔵)

「雑訴決断所牒」(伏見稲荷大社蔵)

当社が所蔵する数ある古文書の中に、建武元年(1334)付の『雑訴決断所牒』というものがあります。「雑訴決断所」とは、後醍醐天皇による“建武の新政”の際、記録所・武者所と併置された政務の主要機関の一つで、主として土地問題の紛争解決にあたった役所です。『雑訴決断所牒』に書かれている大意は、「稲荷社領である加賀国(能登半島を除く今の石川県)味智郷内の水田20町は、寿永2年(1183)9月の『院庁下文』、文治2年(1186)9月5日の『関東下文』、同3年3月20日の『留所下文』および正嘉2年(1258)2月27日の『院宣』等によって管領が認められていたとおり、(為政者が交替した)今日(建武元年)もなお管領してよろしい」とするものです。

加賀国に存する上述の水田20町が、いつの頃から大社の領有するところとなったかについては定かではありません。しかしこの『雑訴決断所牒』を見る限りでは、後白河院の頃から鎌倉幕府の存続の間、そして幕府が滅んで“建武の新政”が行われるようになった頃までの、前後少なくとも150余年間の永い間、大社領となっていたことが知られます。そしてこの一枚の古文書が示している期間に、当社においては特記すべき歴史事跡がありました。

それは、当社が稲荷五座とあがめられるようになったことです。それは後白河院《建久3年(1192)崩御、御年66歳》の撰になる歌集『梁塵秘抄』に、

 いなりおはみつのやしろとききしかと
       いまはいつつのやしろなりけり

と詠われていることでもうかがえます。

まず延長5年(927)奏上された『延喜式神名帳』(全国に奉祀されている天神地祇、すべてを集録したもので3,132座を記録)に「稲荷神社 三座」と記されるはるか以前から、永い伝統として稲荷神は三座に祀られていることは周知の事実でした。下ノ社・中ノ社・上ノ社がこれです。平安時代に詠われた多くの和歌でも、稲荷の社は三つであることが、主題もしくは掛け言葉として用いられています。

 いなり山社の数を人とはば
        つれなきひとをみつとこたえむ
                (拾遺和歌集)

 いなり山しるしの杉の年ふりて
        みつのみやしろ神さびにけり
                (千載和歌集)

稲荷五社を構成する一つである“下社摂社田中社”に関わりがあるかと考えられる社として、境外に、本社表参道から伏見街道を北へ約一キロに鎮座する“境外摂社田中神社”があります。

“田中神社”については、古くから京中~大社への参詣道、あるいは参詣の帰り道正面にあたっていたところから、記録にもとどめられています。歌人として著名な和泉式部の稲荷詣に関する『古今著聞集』中の一文は、当時の“田中神社”周辺の環境を知る上でも貴重なものです。

“下社摂社田中社”以上に確かなことがわかっていないのが、稲荷五社に含まれる“中社摂社四之大神”です。

“四之大神”は、“田中社”がご本殿最北端座に奉祀されているのに対し、ご本殿最南端座に奉祀されています。ご祭神についても、“下社摂社田中社”あるいは“田中神社”が、その名称からして農耕神的色彩が濃いのに対し、四柱の神とする考えや、一柱の神と説かれたり、いづれにしても不詳としかいいようがありません。

当社旧神主家と同族系氏族が祭祀していた洛西・松尾大社御祭神の一座に、四之大神が祀られていることとも併せて今後の研究課題と言えるでしょう。

このように来歴不詳の摂社二座が、12世紀末以降「稲荷の神」と称える内に含まれるようになった由縁は、各御祭神の御神徳より来る関連、或いは“田中の神”および“四之大神”の祭祀集団と“稲荷神”の祭祀集団との関連、その地域的近接、勢力の優劣等々が互いに絡みあっているのかも知れません。

事実「稲荷五社大明神」の尊称がごく一般的になっていた江戸期に当社祠官が考えていたように、この二座は、元は稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神的傾向が濃厚であるようです。

このようなことから、社内においては古くから本社三座に次ぐ重要な社として祭祀を怠りなく努めている間に、「稲荷神社三座」とは密接不可分の社として朝野の信仰を集めるようになり、やがて最初に述べたように“いつつのやしろ”を構成するにいたったのです。

このような伝統の上に立って、久安6年(1150)下社奉幣に併せ田中社幣が、中社奉幣に併せ四大神幣が初めて加えられ(本朝世紀)、降って文永3年(1266)の稲荷祭には、田中・四之大神両社とも初めて祭に加えられた(神号伝並後付十五箇条口授伝之和解)のです。以降「稲荷五社」は一般的となり、ついにその格付けにおいては本社と摂社の格差は厳然と保たれているものの、本社三座と同じ高さの床に同殿祭祀されるに至ったと考えられます。

命婦社(今の白狐社)に対する奉幣が行われるようになったのもこの頃です。建永元年(1206)8月16日の御幸の際(明月記)、建保2年(1214)5月20日の奉幣の際(後鳥羽院御記)、宝治2年(1248)8月5日の御幸の際(葉黄記)等々、田中社・四之大神両座に対する奉幣はないのに、いずれも命婦社への奉幣が下社奉幣に続いてなされています。

■社殿造営に関する年表
貞観元年
859
稲荷社修造
(三代実録)
 
延喜元年
901
  稲荷三所大明神
(日本紀略)
延喜8年
908
稲荷三箇社修造
藤原時平(神祇官勘文)
 
延長5年
927
  稲荷神社三座 並明神大社
(延喜式)
正暦元年
990
稲荷社修造
(小右記)
 
天仁2年
1109
稲荷社遷宮
(殿暦)
 
久安4年
1148
  頼長、下社に奉幣し歩行して中社・上社に奉幣、下社に戻る
(台記別記)

頼長の女多子下社より輿に乗り、中社・上社を巡拝す、幣は5串
久安6年
1150
  頼長、下社においては田中社の幣を、中社においては四大神の幣を加え上社に至り、帰り坂を経て帰る。
建久元年
1190
稲荷社「上・中・下社・正殿」遷宮
(吾妻鏡)
 
宝治元年
1247
稲荷社正遷宮
(百練抄)
 
応永17年
1410
稲荷社修造
(東寺百合文書)
 
長禄3年
1459
  山上・山中・山下の社殿指図
寛正2年
1461
稲荷社遷宮
(廿一口方引付条目大概目安)
 
応仁2年
1468
  3月21日応仁の乱により社殿諸堂ことごとく焼亡す。
上・中・下三社別殿を造営し、この日仮殿遷宮あり、初めて五社を相殿とする。
文明14年
1482
  暴風により中社倒壊につき中社神主中社を上社へ遷宮
(資益王記三)
明応8年
1499
正遷宮 現本殿
(明応遷宮記録)
 
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