沿革

初午(はつうま)

今日“初午”といえば、年中で最も寒い時季に当り、時として節分の前にめぐり来ることすらあります。しかし古くは旧暦を用いていたので、節分前に“初午”が来ることはなく、もう少し春めいた頃(通常は2月下旬から3月中旬の間)にめぐってきたものでした。四季のうつろいを敏感にとらえ、その中に“もののあわれ”を見出した当時の人々は、“初午”にはこぞって稲荷社に詣でたものでした。

平安時代の貴族の暮らし (井筒風俗博物館)

平安時代の貴族の暮らし (井筒風俗博物館)

今からおよそ900年近く前、平安時代もいよいよその華やかさを増してきた頃のこと。当時の下級役人であった茨田重方という近衛舎人が、数人の仲間と共に手作りの弁当や好物の酒をもって、稲荷詣としゃれこんだことがありました。その日はちょうど2月初午の日で、春の陽気もたいへん快く感じられ、参詣者も例年より多く、社頭は雑踏を極めていました。

彼等が、下ノ社の参詣を済ませ、山へ入ったところに鎮まる中ノ社の近くにさしかかると、多数行き交う人々の中に、たいそうめかしこみ美しい衣裳で着かざった、見るからになまめかしい婦人に出逢いました。重方たちが横柄に参道を歩いているので、その婦人は木立ちに身をひそめて、彼等が通りすぎるのを見送ろうとしました。しかし彼等は下級役人の気安さと、常日頃から宮廷で婦人達とよもやま話をすることにもなれているので、少々気どった婦人に対してでも口を切りだす方法は心得ており、中でも重方は性来の好色癖から、仲間の舎人がひやかし半分に笠の下からのぞき込んだり、軽口をたたきながら通りすぎたのに、彼一人は婦人の間近に寄って、神社の境内も、多数の参詣者もはばからずに口説きはじめたのです。

けれども、そうは簡単に重方の口車にのってくるような婦人ではなかったようで、

「奥様のおられる方が、行きずりにおっしゃることなどどうして本気にできましょう」

と答えたのですが、その声は男心を動かさずにはおかないような、艶やかな響きを持っていました。

「ええ、確かにつまらない妻はおります。しかしその顔はサルのようで、心は卑しい女そのものなのです。そのためにいつも別れようとは思っているのですが、そうすればたちまち着物のほころびを縫ってくれる者がいなくなるのを、ついつい不便に思いながら日を重ねているのです。ですから心がふれあう人に出逢ったなら、ぜひ早々にそちらに移ろうと思っていたのです」

「ざれ言をおっしゃいますな」

「いいえ、ご社頭で嘘いつわりがどうして言えましょう。年来思い続けてこのお社にお参りしていたのですが、ついに大神様のお聞き入れくださるところとなったものとたいへんうれしく思っているところです。ところで、貴女は今一人でお住まいですか。そのお住まいをぜひお聞かせ願いたいものです」

「今はこれといって定まった殿御はありません。かつて宮廷に仕えたこともありましたが、それを止める人ができたので宮仕えをやめましたものの、その人はいつの間にか田舎に引きこもって通って来なくなり、ここ2、3年は、私を見初めてくれる人ができるようにと願って、今日もこの稲荷のお社にお参りしたようなわけです。本当に私のことを心憎からず想ってくださるのなら、住まいをお教えしたいような気持ちになってしまいます。それにしても、行きずりの人がおっしゃることに、つい乗気になりかけたりしてはしたない。どうぞお気に留めずにお行きください」

婦人はいかにも決心したかのような調子で行き過ぎようとしたのであるが、重方はもうひと押しとばかり、その婦人の胸元に烏帽子をさしあてんばかりに、

「ああ、稲荷大神様お助けください。そのようなわびしいことをお聞かせくださるな。これから貴女のお供をしてわが家には一切足を踏み入れません」

ところが。まるで念ずるような姿をしている重方の髻(もとどり)を、烏帽子ごしにこの婦人がしっかりと握って、山が響くばかりに彼の頬に平手打ちをくわせたのです。重方は、一瞬その意味を理解できず、ふと婦人の顔を下からのぞき込むと、なんとこれがサルのような顔であるはずの重方の妻であった……という話。

これは『今昔物語』(28)に書かれている話で、茨田重方という人物は実在の人ですが、ここに物語られている重方と同一人物であるか否かは確かめることができません。“初午”には老いも若きも、男も女もめかしこんで稲荷詣をした様子が、目のあたりにするように、雑踏の様子が聞こえるかのように、淡々とした表現ながら生き生きと描き出されています。

当時の皇后・藤原定子[長保2年(1000)崩御]のそば近く仕え、才媛の誉れ高かった清少納言は、有名な『枕草子』の中で、初午詣をした時のことを次のように記しています。

「2月午の日の暁に、稲荷の社に詣で、中ノ社のあたりにさしかかるともう苦しくて、なんとか上ノ社までお参りしたいものだと念じながら登っていくと、もはや巳の時(午前10時頃)ばかりになり、暑くさえ感じられるようになってきて、涙をこぼしたいほどわびしい思いをしつつ休息していると、40余りになる普段着の婦人が、“私は今日7度参りをするつもりです。もう3回巡りましたからあと4回くらいは何でもありませんよ”と、往き会った知人らしい人に告げてさっさと行くのをながめては、誠にうらやましく思ったものである」

先の『今昔物語』でも、この『枕草子』でも、中ノ社は下ノ社より相当山に入ったところに鎮まっていたことがうかがえ、まして上ノ社までの参詣は、清少納言のように宮廷の奥深く仕えた女房には、稲荷詣が“初午”の頃であっても汗が出るほどの苦労であったことがわかります。

有名な歴史書『大鏡』の中にも、年老いた「世継」という人物が、子供の頃の元慶8年(884)光孝天皇践祚の日に洛中から父にお伴して稲荷社に参詣し、その日のうちに帰れないほど疲れた思い出を語るくだりがあります。

きさらぎの3日、はつむま(初午)といへど、甲午最吉日、つねよりも世こぞりて稲荷詣にののしりしかば、ちち(父)のまう(詣)ではべ(侍)りしとも(伴)にしたいまいりて、さは申せど、こう(困)じて、その日のうちにげこう(下向)つかまつらざりしかば、ちちやがて、そのみ社の禰宜の大夫がうしろみつかうまつりて、いとうるさくて候しやどりまかりて一夜は宿して、またの日かへ(帰)り侍し。

このように、初午詣には、平安時代の初期から老若男女がうち連れて群参した様子がうかがえます。『今昔物語』の茨田重方のように、物見遊山的な気分で参詣する者もいたでしょうが、“初午”の日には、『枕草子』に描かれた市井の婦人のように七度も登拝をするという熱烈な信仰が、当時すでにあったようです。

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