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伏見稲荷大社の御祭神を敬仰する信仰者によって全国規模の講組織が確立されたのは、明治初期に結社された瑞穂搆社に始まります。しかしながら、この瑞穂搆社は忽然と組織化されたわけではありません。往昔より行われた初午詣の稲荷山登拝等に、隣近所の同信者或いは同職の人々がうち連れて参詣したことは、今昔物語に「やむごとなき舎人共、餌袋破子酒など持たせて列ねて参りける」と見えることからも容易に想像できます。こういった民間の信仰者の組織が各種の講組織へと発展していったのですが、それは稲荷勧請による信仰者の結集、当社本願所愛染寺による信徒の結集、社家方による神事搆の結社、産土地における講の結社、商家の仲間による結社、稲荷祭礼における神事搆の結社、火焚祭を護持する神火搆の結社、というような形で個別に営まれ、各自独立して発展していったのであります。

維新後の明治3年、大教宣布の詔が発せられ、続いて神官の職制と社格の制定、あるいは神祇官の復興などの諸政策が打出され当社にとっても大きな変革期を迎えました。それは、当社ご鎮座以来続いてきた社家世襲による神社運営が廃止され、明治4年に官幣大社に列せられると共に、翌年には政府により大宮司が任じられました。このような状況下にあって、一般神社は講中の強化や氏子信者組織の強化に努めるようになり、当社も明治7年9月に教会結社が大教院より許可され、ここに「稲荷神社教会」が設立されたのです。その5ヶ月後の明治8年2月、詮議が重ねられた結果、この講名は「瑞穂搆社」と名づけられたのです。 この瑞穂搆社の結社は、全国各地の当社崇敬者をはじめ既に民間において結社されていた稲荷講を、維新政府の掲げる大教宣布の旗印のもとに、新たに組織化しようとするものであったのですが、小教院による布教のみではその場かぎりの説教で終わってしまうので、これを信仰による裏付によって持続性を期待したものでありました。そこで、瑞穂搆社の結社にあたっては、全国各地の稲荷講がその先達として大きな役割を果たしました。これらの民間稲荷講の結社は、何々講という名称でしたから、瑞穂搆社に統括されるようになってからは何々組と呼ばれるようになりました。これを京都地区に見てみますと、商栄組・開信組・和順組・伏見豊栄組・南山城初穂組など22組にもなり、その他の府県でも大阪府下に御玉組・初穂組・玉穂組、三重県に敬神組があり、これらの組織は何々県瑞穂搆社第何号何々組と呼ばれました。そして、これらの組には、搆長・副搆長・搆掌が置かれて運営されていました。これらの結社数は年を追うごとに増えつづけ、明治10年には京都府下80号・大阪府下9号・滋賀県下6号・堺県下3号・三重県下4号・岡山・岐阜県下に各1号・福岡県下2号・徳島県下1号と結社は九州・四国にまで及び、その数107号、加入者数12,700余人にもなりました。今日のように交通機関が発達していなかった時期に、このように遠隔の地にまで崇敬者が及んでいたということは、いかに稲荷信仰が一般庶民の信仰として篤かったかを示すものといえるでしょう。

支部講員代表の参拝風景

明治維新に際し、国民思想の統一・国家意識の高揚を図った大教宣布運動は、次第に他宗教の反発を受けるようになり、遂に明治17年教導職の廃止により終わったのですが、この教導職の廃制に伴い、瑞穂搆社の組織の維持は困難となりました。しかし、一度大きくまとまった結社の火は簡単に消えるはずがなく、この結社は神社付属の瑞穂搆社として存続したのです。大正9年に至り瑞穂搆社を稲荷講社として規約を改正するよう、京都府知事に稟請したのですが、これは神社の事情により取下げとなりました。

このような瑞穂搆社を稲荷講社と改称規約改正しようとする胎動は次第に高まり、内部での審議をかさね、昭和2年6月6日にようやく成立し、官幣大社附属稲荷講社として京都府知事から認可されたのです。ここにおいて本講社は、稲荷大神の御神徳を宣揚し、敬神尊祖の美風を涵養して神社の隆盛を図ることを目的として設立されました。この目的を達成する為に、信仰者を講員として募り、地方には支部組織或は、扱者が次々と誕生し、国内は言うに及ばず海外にまで支部が組織され、昭和16年に至り財団法人に改組されました。


戦後、神社の性格が変貌するのに伴い、この講社が伏見稲荷大社附属稲荷講社と名称を改め、目的達成のため前進を続けたのですが、戦後の宗教事情の複雑化により、多少の弊害を生じたこともありました。そこで長い歴史を持つ稲荷講社組織を基盤として、時代に即応した施策をもって、新しい神徳宣揚の組織づくりを期して、昭和38年に文部大臣の認可を得て伏見稲荷大社講務本庁が改めて発足したのです。もちろん、その目的は稲荷講社の時と同じですが、新たに所属教会を対象とする教会活動を活発化することをも大きな使命としました。以降、逐次発展を遂げ、現在では、北は北海道から南は沖縄まで、また、ハワイ・ブラジルの地にまで講員が及び、支部・扱所組織は500を数え、全講員数も100,000余名を擁する大きな組織となったのです。


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