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稲荷山
稲荷山は、いわゆる“東山三十六峰”の、最南端に位置する霊峰(海抜233m)で、古くから三ケ峰と呼ばれてきたように三つの峰が西から東へと段々に高く連なり、これを山麓から仰ぐと、まさしく降臨の地にふさわしい山容をそなえています。
山麓のご本社に近い峰から順に三ノ峰・二ノ峰・一ノ峰と称し、三ノ峰と二ノ峰の中程に間の峰、そして三ノ峰の北方に荒神ヶ峰がつらなっています。山中には、おびただしいお塚が群在し、参道には数千もの朱の鳥居が建ち並んでいます。
稲荷山に登り、これらの神蹟やお塚を巡拝することを「お山する」といい、参詣の人は日夜あとをたちません。
稲荷山
山上旧跡図 秦 長種
亨録4年(1531)頃お塚
平安時代の人々は、2月初午の日に稲荷山へお詣りすれば福がいただけると毎年足を運んだものでした。中世になると稲荷山の峰々が下ノ塚・中ノ塚・上ノ塚などと呼ばれ、明治になると七神蹟地が確定され、その親塚が建立されました。これを契機にその周辺に個々人の信仰によって表わされた神名を刻んだ「お塚」が奉納されるようになりました。
これは、個々人が、ご神徳に因んだ神名やそれぞれの家で祀っている“何某稲荷大神”の神名を、石に刻んで、それを稲荷山で祀りたいとする信仰心(お塚信仰)の表れです。
今日その数は数万をかぞえます。
稲荷山のお塚 -
楼門
この建物は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。
秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就すれば一万石奉加する、と記したいわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。
しかし造営伝承と伝来文書との整合性については多少の疑問がありました。ところが昭和48年に楼門の解体修理が行われたところ、願文の年次と同じ「天正17年」の墨書が発見され、伝承の正しかったことが確認されました。神社の楼門の規模としては最も大きいものに属します。
楼門
豊臣秀吉書状
楼門古材(頭貫)
年号「天正17年」の墨書 -
本殿
社記には「御本殿五社相殿ウチコシナガシ作四方ニ高欄有ケタ行五間五尺ハリ行五間五尺」とあり「稲荷造」と称されています。
応仁2年(1468)の兵火により、境内の殿舎堂塔の全てが焼亡し、やがて仮殿の復興があったようですが、その後に諸国へ勧進が行われようやく明応8年(1499)に再興されました。
社殿建築としては大型に属し、装飾、特に“懸魚”の金覆輪や“垂木鼻”の飾金具、それと前拝に付けられた“蟇股”等の意匠に安土桃山時代へ向かう気風がみなぎり、豪放にして優華な趣をただよわしています。
重要文化財。
ご本殿(側面)
ご本殿(正面) -
お茶屋
寛永18年(1641)禁中非蔵人として出仕していた羽倉延次が、後水尾院より拝領したもので、創建は17世紀はじめとされています。
書院造りが数寄屋造り化していく過程を示す数少ない貴重な遺構です。
重要文化財。非公開
お茶屋外観
お茶屋内観 -
講務本庁
伏見稲荷大社講務本庁は、全国各地の稲荷信仰者により組織された団体であります。
長い歴史と伝統を有する稲荷信仰は、社会の進歩発展に伴い元来の農耕信仰に、殖産興業の神として、幅広い信仰も加わるようになって参りました。
詳しくは講務本庁をご覧ください。
講務本庁 -
千本鳥居
「赤い鳥居」といえば、すぐさま人々は「おいなりさん」を連想するほど、赤という色が人々の心情に深く染みとおっています。
元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。
この「あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の“みたま”の働きとする強烈な信仰が宿っています。
崇敬者が祈りと感謝の念を奥社参道に鳥居の奉納をもって表そうとする信仰は、すでに江戸時代に興り今日の名所「千本鳥居」を形作っています。
千本鳥居 -
奥社奉拝所
本殿の東方、千本鳥居をぬけたところ通称“命婦谷”にあり、一般には「奥の院」の名で知られています。この奥社奉拝所はお山を遥拝するところで、稲荷山三ケ峰はちょうどこの社殿の背後に位置しています。
当社に伝わる明応の遷宮記(1499)には「・・・東ニハ当社奥院トテ命婦形マシマス也」とあり、その創建の古さが偲ばれますが、規模の子細については不明。江戸時代にはその名を封戸所・供物所ともいっております。寛政6年の罹災後、規模を幾分大きくして造営されたのが現在の社殿で、昭和50年に社殿を後方の今の位置に移し、前に拝所が設けられました。
奥社奉拝所おもかる石
奉拝所の右側後に、一対の石灯篭があります。この灯篭の前で願い事の成就可否を念じて石灯篭の空輪(頭)を持ち上げ、そのときに感じる重さが、自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶い、重ければ叶い難いとする試し石です。
おもかる石 -
熊鷹社
朱の玉垣の向こうに緑の山影を映す池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称があります。行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると云う言い伝えがあります。
池に突き出た石積みに拝所が設けられ、熊鷹大神の御塚が鎮まっています。
(火焚祭11月17日)
熊鷹社 -
一ノ峰(上社神蹟)
ここは稲荷山の最高峰(標高233メートル)です。
ここを末広大神と崇める信仰がありますが、これは親塚を建てた以前からつづく信仰らしく、神蹟改修を示す親塚裏面に(明治10年6月、燈明講奉納・末広社)という刻字が見出せます。(火焚祭11月10日)
上之社神蹟 -
二ノ峰(中社神蹟)
ここは青木大神と崇められています。
(火焚祭11月11日)
中之社神蹟 -
間ノ峰(荷田社神蹟)
ここは伊勢大神と崇められています。
神域入り口に建つ石鳥居は、奴祢鳥居(ぬねとりい)と称し、額束の両側に合掌状の破風扠首束(さすつか)をはめた特異な形をしています。(火焚祭11月25日)
荷田社 -
三ノ峰(下社神蹟)
白菊大神と崇められています。
明治20年代の半ばごろ、おそらく改修工事をしていたのでしょう、ここから変形神獣鏡が出土しました。現在京都国立博物館に出陳されています。(火焚祭11月9日)
下之社神蹟
二神二獣鏡 変形四獣鏡 -
御劔社 釼石(長者社神蹟)
この神蹟は山上古図に釼石(雷石)と記されている処です。稲荷山の三つの峰と同じように、古くからの神祭りの場であったようです。
神蹟の左に焼刃の水と呼ぶ井戸があります。
謡曲に三条小鍛冶宗近が勅命を蒙り、当社山中で稲荷大神の助けを得て、名刀小狐丸を鍛えたと語られていますが、その場面とオーバーラップする場所でもあります。
(火焚祭11月6日)
釼石
長者社 -
御膳谷奉拝所
ここは御前谷とも記され、稲荷山三ヶ峰の北背後にあたり、往古はここに神饗殿(みあえどの)と御竈殿(みかまどの)があって三ヶ峰に、神供をした所と伝えられています。
三つの峰の渓谷がここに集まって一の峰、二の峰、三の峰を拝する要の所。
毎年1月5日「大山祭 山上の儀」が斎行される聖地です。
祭典期日の由来は諸説があって不明といわざるを得ませんが、この日の午前中大山祭に先立って、稲荷山七神蹟の玉垣(今日では神蹟域の外玉垣)に注連縄を張る「注連張神事」が行なわれます。これは二月初午までがほぼ一ヶ月であることを考えるとそのゆかしさに興味をそそられます。
「山上の儀」において御饌石と呼ばれる方1メートルほどの神石の上に、中汲酒を盛った、古式の齋土器七十枚が供進されます。これは古の祭の姿を彷彿とさせてくれます。
この祭儀の後、祭員は「ひかげのかずら」を首にかけて稲荷山の神蹟の巡拝に向かいます。
御膳谷奉拝所
大山祭 中汲酒供奠御膳谷の主な年中行事 大山祭(山上の儀) 1月5日 13:30〜 御塚大祭 2月初午の日(旧暦) 2月初午は稲荷大神のお山ご鎮座のゆかりの日として、古来お山詣の盛んな日でした。御膳谷奉拝所では、旧暦の初午を寿ぎ「お塚大祭」として執り行っています。 火焚祭 11月28日 14:00〜 御膳谷奉拝所では、稲荷山に鎮まりますお塚の神々に御饌を供進する、「御日供奉献者」を募っております。加入ご希望の方は、直接御膳谷奉拝所へお申し込み下さい。なお御日供奉献は原則として一カ年以上継続していただきます。
初穂料は年額9600円及び18000円の二種類があります。
御日供奉献の方には毎年1月14日に斎行されます「特別崇敬者安全隆昌祈願祭」への参列をご案内いたします。伏見稲荷大社 御膳谷奉拝所
〒612-0882
京都府京都市伏見区深草薮の内町68番地
TEL 075-641-2755 -
清滝
御膳谷奉拝所から北へ向かって下り坂があります。200メートル程下ると清滝に至ります。この裏に東西に通じる山道があります。西の方へ川に添って下れば北谷を経て東福寺・泉涌寺へ出ます。
(火焚祭11月12日)
清滝 -
荒神峰(田中社神蹟)
ここは権太夫大神と崇められています。この神蹟の後方にまわると景観が開けます。ここでは四辻で見えなかった京都市内中心部から以北が、手に取るように見えます。
稲荷山十二境図詩に、「孤巒返景色」とあるのはこのあたりが最もふさわしいように思われます。
(火焚祭11月13日)
荒神峰 -
御幸奉拝所
ここは昭和38年に開かれた場所で、この神域に当社への崇敬篤かった横山大観画伯の筆塚があり、周りには黒竹が植えられています。
この尾根は、古く平安の頃より御幸辺(みゆきべ)と呼ばれ、お山参詣の重要な経路でありました。
(火焚祭11月26日)
御幸奉拝所 -
啼鳥菴
八島ヶ池のほとりの「啼鳥菴」(ていちょうあん)は平成29年12月に新設された休憩所で、テラス席も併設されています。
名称の「啼鳥菴」は唐代の詩人、孟浩然の漢詩に由来するもの。「鳥が鳴く」という意味で、「池のほとりに鳥が集まり、神と人と自然が共生する場所になるように」との思いが込められています。
啼鳥菴