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東山区本町15丁目
三門(手前)と法堂(奥) 臨済宗東福寺派の大本山、嘉禎元年(1235)九条道家が創建、建長七年(1255)に落成しました。奈良の東大寺、興福寺の一字づつをとって東福寺と名づけ、開山には、後に「聖一国師」と言われた円爾(えんに)が迎えられました。三門(国宝)は、応永年間(1394~1428)に再建されたといわれており、禅宗寺院としては最古のものです。
34.976951, 135.774357 -
東山区本町20丁目
伏見街道に面して「稲荷神社境外摂社 田中神社」という標石がたっています。和泉式部がこっそり稲荷に詣で、田中明神附近で時雨にあい困っているとき、田を刈っていた一人の童が“あを”(雨具)をかしてくれました。帰りには晴れていたので、その“あを”を返しました。その翌日、童が式部のところへ艶文を持ってきました。開くと、
時雨する 稲荷の山のもみぢ葉は
青かりしより 思い初めてきとあり、式部は哀れと思い、その童を奥へよび入れた、という話が残っています。
34.973505,135.770624 -
伏見区深草願成町
墓地の奥の方、土塀に囲まれて中央にあるのが南明院開山業仲の墓、右の自然石は足利義持に東福寺境内の桜を切るよう願った明兆の墓と伝えられています。左側に大小二個の五輪石塔があり、大きいほうが平安末期から鎌倉初期の代表的歌人、「千載和歌集」の撰者として知られる藤原俊成(1114~1204)、小さい方は応安3年(1370)この丘を、俊成の菩提のために寄進した、冷泉家ゆかりの浄如尼の墓と伝えられています。34.971817,135.774314 -
伏見区深草正覚町
住宅地の中に石柵で囲まれた墳墓。附近の人たちは「塚」と呼んでいます。阿保親王(792~842)は、平城天皇の第一皇子、桓武天皇の孫にあたる人で、弘仁元年(810)薬子の変に連座して、大宰府権帥(だざいふごんのそち)として左遷されました。同じ大宰府権帥でも、後の菅原道真は太宰府で没しましたが、親王は帰参を願い祈ったところ、嵯峨天皇に召し帰されました。願いがかなったので一寺を建立して願成就寺と名付けました。近くに今も願成町という地名が残っています。34.972168,135.771353 -
東山区本町22丁目
土製の十王像ここは旧法性寺塔頭の一つ「十王堂」の跡といわれ、閻魔大王をはじめ、秦広王から五道転輪王までの十王像が祀られています。これらの土製の十王像は、伏見人形のルーツの一つであるとされています。
本尊阿弥陀如来立像は鑑真もしくは行基作といわれています。
また丈六の薬師如来座像は、旧法性寺中堂の本尊といわれ、法性寺衰退後、三ノ橋北詰の薬師堂に移され、明治十年から当寺で祀られるようになりました。
34.971219,135.771096 -
伏見区深草薮之内町
京阪電車伏見稲荷駅附近からは、土産物店、料理店が軒を連ねています(稲荷新道)。伏見街道を横断して鳥居をくぐると、神具店が軒を連ね裏参道とはいえ、朱の世界に近づいてきます。この裏参道(神幸道)では、いなり煎餅・伏見人形・清水焼・神具一式・御神酒・ローソク・生八ツ橋・京つけもの・昆布・京野菜といったショッピング、あま酒・ところてん・わらび餅・ひやし飴・焼き鳥(すずめ、うづら)・きつねうどん・にしんそば・いなり寿し・鯖寿しなどのグルメが楽しめます。稲栄会・稲青会のホームページはこちら
34.968019,135.771439 -
伏見区深草薮之内町
東丸神社伏見稲荷大社外拝殿の南にあるこの神社は稲荷社祠官羽倉家に生まれた、荷田春満(東丸)(1669~1736)を祀っています。
僧契沖に始まる近世国学を発展させて「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の基礎を作りました。門下に賀茂真淵がおり、続く本居宣長、平田篤胤と共に、国學の四大人と言われました。社の西側に旧邸(史跡)の一部が残されています。
34.96721,135.772727 -
伏見区深草稲荷御前町 JR稲荷駅構内
明治12年京都・稲荷・山科・大谷間13.1キロが仮営業されJR稲荷駅の歴史は始まりました。旧国鉄の19番目の駅だそうです。
鉄道唱歌 44番
大石良雄が山科の その隠家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山
この鉄道の歴史を物語るのが赤レンガ造りの準鉄道記念物のランプ小屋です。昔の南半分を残すのみですが、古きSL時代をしのばせるランプ等の品々が保存されています
。34.96728,135.770881 -
伏見区深草石峰寺山町 ありの山墓地
明治3年(1870)の深草村絵図には、この場所は「ヌリコベ墓」と記入されており、江戸時代から信仰があったことは確かなようです。
名前の由来は、歯の痛みを封じ込める意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になったともいわれています。
歯の治療を願って参詣者は絶えません。34.96612,135.774014 -
伏見区深草石峰寺山町
五百羅漢正徳3年(1713)黄檗宗六世、千呆(せんがい)が開いた禅道場です。
江戸時代の画家、伊藤若冲(1716~1800)は、京都の青物問屋に生まれましたが、禅に心を寄せ、生涯を独身で通しここに草庵を結んでいました。
竜宮造りの赤門と、南天並木をすぎると、本堂の背後にもう一つ赤門があり、その奥の竹林には、若冲が下絵を描いた五百羅漢があります。これらの石仏は虚飾のない表情の中で、人間性と美を秘めていると評されています。
34.965311,135.775044 -
伏見区深草宝塔寺山町
仁王門徳治2年(1307)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(現在向日市)において、時の極楽寺住職良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服、極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。
日像は京都妙顕寺で康永元年(1342)没しましたが、遺言により、ここで荼毘(火葬)にふされました。日蓮、日朗の遺骨も納められましたので、西身延、巽の霊山とも呼ばれています。
34.963658,135.775473 -
ミニハイクコース
七面宮宝塔寺の本堂横から登っていくと、宝塔寺の鎮守社である七面宮に出ます。ここには法華経守護の吉祥天が祀られています。また、深草墓園から登るのも良いコースです。105メートルの山上からの眺めもすばらしく、伏見城天守閣、遠くは男山、天王山が望まれます。
34.964607,135.777705 -
伏見区深草坊町
本堂竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と門は深草一の風情があります。ここはもと極楽寺薬師堂の跡といわれ、明暦年間元政上人(1623~67)が草庵を結びました。
元政上人は元の名前を石井吉兵衛といい、彦根城主井伊直孝に仕えていましたが、生来体が弱かったため、出家し妙顕寺日豊の門下に入りました。
竹葉庵と号したほど竹が好きで、死後遺志により、三本の竹を墓標として植えました。一本は法華経のため、一本は両親のため、一本は人々の苦悩を救うためです。
元政上人は戒律と孝道に努められた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」とうたわれるほど有名でした。
水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。
34.961935,135.774958 -
伏見区深草真宗院山町
本堂
後深草天皇(1243~1304)の願いにより円空立信が開山しました。天皇が崩御の後、境内にある法華堂に納骨されました。これが「深草北陵」(十二帝陵)の始まりです。裏山の墓地に、日本最初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋(1705~62)とその一族の墓があります。34.960598,135.778005 -
伏見区深草鞍ヶ谷町
御影殿文政4年(1821)比叡山の僧尭覺(ぎょうかく)が有栖川宮韻仁(つなひと)親王の命により、桓武天皇菩提のために建立しました。
京都御所の建物を移築して御影殿にしましたが、老朽化甚だしく、昭和33年、現在の洋風建築に再建されました。
祀られている桓武天皇の肖像画は比叡山より下賜されたものです。
またここは、幕末に飯田忠彦(1798~1860)が「野史」291巻を執筆した所でもあります。
側の谷口古墳は江戸時代までは桓武天皇御陵として祀られていました。
34.956307,135.780666