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沿革

泰平の世の信仰

江戸時代になると、朝廷においては神々に対する信仰が急速に高まりました。ことに第108代の後水尾天皇は稲荷信仰に深甚な関心を寄せ、非蔵人兼務の上社神主秦親明から「御神符神守之深秘」を受けています。一方、2年後の寛永18年(1641)、後水尾上皇は御所の建物の一部を非蔵人兼務の目代荷田延次に下賜しました。これが現在に伝わるお茶屋(重文)です。

お茶屋

お茶屋

朝廷の当社に対する信仰ということでは、桜町天皇の延享元年(1744)七社奉幣のことがあり、当社への公式な奉幣が復活したこともあげておくべきでしょう。朝廷の公式の奉幣は寛正元年(1460)に中絶して以来、実に284年ぶりのことでした。

ところで、江戸時代の当社はまた、全国的に著名な国学者を世に送り出しました。いうまでもなく近世国学の基をきづいて国学四大人の筆頭にあげられた荷田春満です。春満は寛文9年(1669)、当社の御殿預主膳信詮の次男として生まれました。その生家とされる平家建書院造りの荷田春満旧宅が楼門の南側に国の史跡として保存されています。

荷田春満旧宅

荷田春満旧宅

慶応4年(1868)正月3日の夕刻、一発の砲弾が合図となって開始されたのが、明治維新政府と旧幕府の正面切った武力決戦、鳥羽・伏見の戦いです。両軍は、鳥羽と伏見の2ヶ所に対峙していたから、鳥羽街道の砲声とほぼ時を同じくして、伏見方面でも戦闘がはじまりました。

伏見・鳥羽両方面の勝敗はともにその日のうちに決し、敗れた旧幕軍は大坂に向けて落ちていきました。その報を得て、京都朝廷や新政府首脳は大喜びしましたが、当社もまたホット安堵の息をついたことでしょう。もし勝敗が逆転していたならば、戦場は次第に北上し、当社が応仁の乱の際と同様の悲運に巻き込まれていたことでしょう。

それはともかく、この勝利によって政権の基盤を確立した新政府は、以後意欲的に新政策を打ち出して行きました。そのなかにはむろん宗教政策も含まれており、同年3月新政府はまず、神祇官を再興して祭政一致体制をとるという布告を発しました。ついで同月末、新政府神祇事務局が神仏判然令、いうところの神仏分離令を発令、これによって前代の仏教中心主義は神道中心主義へと180度転換し、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることになったのです。その嵐は、当社においても本殿内の偶像の類、数棟あった仏殿、愛染寺をはじめ計3寺は破却されました。祭礼の折に行われてきた東寺神供も一時廃止されましたが、これは後に復興されました。

長い間つづいてきた神仏習合はここに断ち切られたわけであり、信仰の純化という観点からするならこの神仏分離は当社にとって多少のメリットもありましょうが信仰者には一抹の空疎感が生じたであろうことは十分に想像されます。

とはいえ、新政府の宗教政策は、すべて神道側の歓迎すべきものだったというわけではありませんでした。たとえば、新政府は明治4年、神社に上知令を発していまこれにより今まで神社の所領地として伝承してきた41万坪に及ぶお山を含む境内地は10万坪に減り、宗教活動にもいささかの不都合があったと伝わっています。その上当社は秀吉以来公認されてきた106石の社領の安堵が解き放たれ、経営基盤はほとんど零になったといえます。

もっともそれは一時的なことで、ほどなく新政府は経済措置を講じ、定額経営の官費支弁の道を開いたようですが、当社にとっては必ずしもさほどの恩恵とは受け取れないもののようでした。また、新政府は明治4年5月、社格制度を定めて官国幣社の制を布告しましたが、この時当社は上賀茂・下鴨・石清水・松尾・平野の各社とともに、最高位の官幣大社に列せられました。しかしこれは境内地上地の実に対する名としてはあまりにも微少と言わざるを得ないでしょう神社経営の絶大な基盤になったとは考えられません。

こうした新政府の一連の施策の狙いは、神道の国教化を推進し、神社を国家の統制のもとにおくことにあったと評されています。そして、その限りでは、新政府の狙いはかなり成功したといってよいでしょう。

しかし、当社のその後の歩みをみれば、近代の稲荷信仰の興隆に最も大きく寄与したのは、結局国家ではなく、所謂一般の崇敬者でありました。当社では明治15年に本殿修復、明治44年に山上参道の改修などの大工事が行われていますが、その折、中心的な役割を果たしたのもやはり氏子崇敬者などでありました。

その伝統は、現在もなお力強くうけつがれています。古代から現代に続くそのすぐれて幅広い庶民性は今に絶えることはありません。

※このコラムは『たくましい民衆のエネルギーに支えられた1200年の歴史』百瀬明治 京都新聞社刊「総本宮伏見稲荷大社」を参考にしました。

お地蔵様とお稲荷さん

明治時代以前より京都では町々に必ずといってよいほど、お地蔵様が祀られてきました。8月の地蔵盆は京都にはなくてはならない年中行事です。お江戸では京のお地蔵様ほどにお稲荷さんが祀られていました。犬公方さまが御在世中には「伊勢屋稲荷に犬の糞」などとはやされるほど・・・。

いまの東京にはもう犬の糞はないでしょうがお稲荷様は今もなお多く祀られています。

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