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沿革

応仁・文明の乱

室町時代は、「明徳の乱」(1391)、「応永の乱」(1399)、「永享の乱」(1438)と打ち続く動乱をゆりかごとしてうぶ声をあげました。将軍・足利義教が、幕府の重臣でもあった播磨の守護・赤松満祐に殺される「嘉吉の変」(1441)以降、泰平のひとときもうたかたの如く消えうせ、幕府の権威もいわば空文に化してしまったのです。やがて応仁元年(1467)5月、将軍義政の弟・義視と実子・義尚の相続争いが、斯波、畠山両家の内紛におよび、ついに全国ほとんどの地域を戦場にしてしまった「応仁・文明の乱」の幕が切って落とされました。これを期に世間の騒動は、まるで荒野に戦車を突き進ませるようなすさまじさで展開していったのです。この大乱の初期に、戦禍の最も激しかったのは、いうまでもなく人口が最も密集していた京都でした。

稲荷社もご多分にもれず、早くも大乱勃発の翌年3月には、稲荷大神御鎮座以来いまだかつて遭遇したことがない、徹底的な破壊に見舞われたのです。このいきさつは『応仁記』やその他の社伝等に記録されています。

応仁2年(1468)3月15日、多賀豊後守高忠の従者で細川氏の与党・骨皮左衛門尉道賢を首領とする軍勢が、比較的新しく当社祠官家に加わったと見られる荷田氏の羽倉出羽守と示し合せて、伏見・木幡・藤森・三楢・深草・淀・竹田・鳥羽等を眼下に見下ろすことが出来る要害の地ともいうべき稲荷山に陣を設け、山名持豊軍の糧道を絶ったのです。

これに刺激を受けた山名方は、3月21日に畠山義就の軍をさし向け、稲荷山攻めを敢行しました。道賢方はひとたまりもなく攻めこまれ、稲荷山の東方山科へ逃れようとするところを、山名方の下級武士に討ち取られ、社司羽倉出羽守も一時身を隠したということです。

そしてこの合戦の際に、稲荷社の「堂塔・社人家等」は、「自二辰初一至二午剋末一迄」すなわち午前7時頃から昼すぎまでの間にことごとく燃えつきてしまった、と記されています。

当社の産土地域である下京一帯は、年を追うごとに商業地域として、京の経済流通の中心的役割を担うようになっていました。豊かな経済力を背景に、稲荷祭に参加する鉾や山もその数を増し、意匠も豪華さを加え、趣向をこらしたものが多数できてきたようです。暦応3年(1340)4月の稲荷祭では、御神輿の他に鉾も巡行したことが記録に初めて見えますし、嘉吉元年(1441)の稲荷祭では、「ホク三十六本、作山十……」「風流造構如二祇園会一」となっています。その翌年には「山鉾五十色斗有レ之……鉾ノ内ニテ色々の舞有レ之」「前代未聞結構」であるとさえ誉め称えられ、「東九条ヨリハヤシ物」も出て「公家衆、諸衆、見物して鼓操」した、と記録されています。

このように、ご神輿の厳粛な渡御、前後の華麗な行列を、まさに歓喜踊躍してお迎えする市中の人々は、経済興隆のうねりにのって、財をなげうち精魂をかたむけて、1年に1度の御祭礼を祝いあったものでした。

ご神輿の御旅中に繰り広げられた諸芸能は、神事やある集団内の交歓のために行われた芸能以外、すなわち観衆を予想し人々に見せる目的で、綜合的な演劇の構造を持った芸能が上演された記録を早く平安期の藤原明衡の「新猿楽記」に初めて見ることが出来ます。いわば、わが国演劇の発祥地としての伝統を持つ当社御旅所ですが、稲荷祭の時には老若男女の雑踏で、演者の声も音曲もかき消されるほどであったと書かれています。

年中行事絵巻 稲荷祭 (伏見稲荷大社蔵)

年中行事絵巻 稲荷祭 (伏見稲荷大社蔵)

この頃、世阿弥によって大成をみる「能」の演曲に『小鍛冶』(ワキ三条小鍛冶宗近がシテ稲荷大神の御神助を得て、名刀小狐丸を無事打ち上げる)が加わっていくのも、ひょっとするとこのお旅所での芸能と関わりがあるかもしれません。

しかしながら室町時代は何といっても騒乱の時代で、1年に1度の祭礼が、必ずしも例年賑やかに、盛大に執り行われたわけではありませんでした。

享徳2年(1453)の稲荷祭ご神幸の際、三聖寺の前を巡行中のご神輿に矢を射かける者があり、輿丁と闘争になり、ご神輿はお旅所に向わず、急遽近くの境外摂社”田中神社”に奉遷されました。そしてこの翌年の稲荷祭は、当社祠官等がこの件を訴訟に持ち込んだため延引となり、ようやく12月22日に御神輿のお渡りとなりました。しかしこの年は、前年の暴挙に抗議の意をもって、灰墨色に塗った六角神輿を造って渡御したとあります。この前後のいきさつは、『東寺私用集』に「去享徳二年御出之時、三聖寺前ニテ大明神ノ御輿ニ矢二筋射立タリ(中略)栄僧、御輿ノ矢為レ見参詣仕時分、公方奉行両人伝二見之一、矢ヲ見ニ、二筋ナガラ縄二差入タリケリ、後日聞ニ、矢差入タル宮仕ハ、女房子供皆発病ウケテ死スト伝聞」と書きとどめられています。時代が反映した誠にいまわしい事件であると言えましょう。

この翌年には、一般民衆からの要求があったとは言うものの、その反面においてこれに便乗し、室町幕府自身の経済建て直しを図るため、この頃にはすでにまるで年中行事といってよいほど月並な行政となっていた徳政が施行される一方、「稲荷祭東寺御供田年貢未進」と東寺の文書が記録しているように、社会経済の歪みはいたるところに顕れ、社会不安を一層増幅するとともに、この経済不安がもとで、稲荷祭について、当社と東寺との関係が、上手くいかなかったこともあったようです。

例えば、「応仁・文明の乱」終焉まもなくの文明10年(1478)4月3日のこと、当社祠官が「京中地口役」を徴集しにくいことを理由に、「稲荷祭礼積料足」を寺納できないことを東寺に報じ、一方東寺では、10日になっても積銭が納付されないので、お旅所においてのご神幸をとどめおき、幕府に訴訟しようではないかということになりました。この翌日の祭礼当日には、当社祠官等は再び「東寺中門積料」の減額を請うています。この結果がどうなったのか、記録に残っていませんが、ともかくも当社としては、産土地域の奉加が期待できなければ、還幸祭の東寺中門神供料を寺納することができず、一方東寺としても、これが納付されないと神供をしなかったのです。

ちなみに「風流結構前代未聞」と賞され、神輿奉迎の人々で賑わった嘉吉2年(1442)の稲荷祭には、当社より「東寺積銭五貫」を出し、寛正4年(1463)でも「東寺御供足五百疋」を支出しています。けれども大乱勃発を目前にした文正元年(1466)の稲荷祭には、おそらく積銭の寺納がなかったためでしょう、東寺に入御したご神輿に御供はされず、そのためただちに還御したとあります。しかしこのような摩擦がたとえ起こったとしても、稲荷祭が執り行なわれるのはまだ幸いであると言うべきでしょう。事実応仁2年(1468)以降、翌文明元年(1469)を除く前後7年間は何も行われていません。

応仁2年(1468)3月21日の被災の折、東寺周辺の衆徒が競って大社に馳せ参じ、「御輿五社分、御本地木像、御正体、御剱、文珠、大師像等を取出し東寺に預けた」とあります。そしてこの年12月15日「稲荷五所御輿五、同神体三所、大師、文珠、獅子六頭、山神画一、法性寺之田中之社」へ還し奉り、翌文明元年(1469)3月23三日、東寺西院の内陣から宝蔵に奉遷してあった「稲荷社御撫物」が、東寺を訪れた「稲荷神主公歳(下社神主)の代官公之」に渡され、この年の稲荷祭(といってもこのような事情から、延引して12月)にお旅所へ御神幸とあることからも、産土地の人々の信仰のあり方がうかがえると同時に、東寺の助力は充分推測出来ます。そしてご神輿が田中社へ奉遷されてからこの年のご神幸までの間には、当社に何らかの神殿を建ててご神璽等を奉安していたものと思われます。

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