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ご本殿修造
当社に関する歴史のうち、ご社殿の建築およびその推移は、比較的新しい時代であるにもかかわらず明確にされていませんが、これはおそらくは「応仁文明之此、当社両度炎焼、社司等迄散在仕、此節旧記等焼失仕候」と、後の祠官が嘆いているように、ほとんどの記録は失われ、この時期以前のものといえば、ごく限られたものが奇跡的に残っているに過ぎません。そしてこのご社殿構築の推移については、大乱以降というより明応期(1492~1500)以降の祠官が書き残したものや、平安期以降に社外で書きとどめられているごく少数の記録等から推測するしか仕方がありません。
応仁2年(1468)3月に、山上・山下の他の殿舎と共に灰燼に帰してしまいました。しかしこの年12月には、早くも仮殿を設けたと社伝にあり、その翌年には余燼くすぶる最中に稲荷祭が執り行われたことは「応仁・文明の乱」の項のとおりです。その後当分の間は、社会事情が思わしくなく、稲荷祭も行えない時代が続きますが、諸国で一揆の波が大きくなるに従い、京都で東西に対立して戦っていた守護たちも、その領国鎮定のため次第に戦列を離れ、さしもの大乱も文明9年(1477)自ずと静けさをとりもどします。当社においても徐々に復興の気運がたかまり、明応元年(1492)2月本殿修造、同3年(1494)6月本殿壁修理、そしていよいよ同8年(1499)11月23日には五社相殿のご本殿にご遷宮になりました。
この修造経費の捻出については、本願所(後の愛染寺)が置かれ、明応3年(1494)から“諸国勧進”が「沙門円阿弥」によって進められたことが、祠官家に伝来した『明応遷宮記』に書かれています。そしてこの円阿弥に諸国勧進をさせ、五社相殿の神殿の伝承修造を企画したのは、荷田氏系祠官だったと思われます。
長禄期(1457~1460)の社殿指図を見ますと山上に大明神(上社)山中に中御前(中社)山下に西御前(四大神・中御前・大タラチメ・大明神・田中)=下社と示されています。文明14年(1482)、大風によって中社が倒壊し、中社神主が上社(いずれも仮殿であったと考えられます)に奉遷したという記録があります。以降明応の遷宮の時期までの間、中社神殿が修造された様子はありません。しかしこの遷宮記には山上のことに触れ山中に「中社在レ之」とありますが、いまひとつ前後のつながりや現在に結びつく論考がなされていません。今後の研究を要するところです。
社殿指図(長禄期)
このように動きの激しい時代に、ひとたび、後代の祠官をしていみじくも「池魚の殃(わざわい)」と嘆かせた災難に遭いつつ、わずかにのぞいた平穏の合間をとらえて行われた“諸国勧進”も、まずは順調に進みます。
「要脚不足」を嘆きながらも、現在、室町期の典型的な社殿大型建築として重要文化財に指定されているご本殿が修造されたことを見、またその後の一層のご神威ご発揚とを考えると、大神様のお働きはまさに永却不滅、かつ日々に新たなるものであることを、現にわれわれにお示しになっているものと有難く感受できるのです。
ここで社殿(神座)に関するものがもう一つあります。
明応8年(1499)に上社・中社・を山上及び山中に復興しないまま下社(現本殿)廻りだけ、所謂山下のみの社殿復興がなされ、この時点において、古代以来営まれてきた山上・山中の古殿地が判別し難くなりました。そのうえ明応8年に権禰宜に就き、天正17年(1589)に下社神主で亡くなりました秦長種が山上旧跡図を残していますが、これはまさしく今日の稲荷山山上七神蹟に見合うものです。
この図と古代以来の古殿地とは関係はどうなのかについても研究の余地があります。確かに解ったと云えそうなものに、下社は古代より一座であれ相殿であれ現在の所に営まれていたことはほぼ間違いのないと考えられることです。
秀吉の信仰
群雄競い立つ戦国乱世に終止符をうち、天下統一をなしとげたのは豊臣秀吉でありました。その秀吉が文禄3年(1594)伏見の古城山に大城郭の建築を開始し、あわせて城下町づくりにとりかかったことから、伏見の町一帯は大きく変容します。
もっとも当社の所在地は深草なので、伏見築城から直接の影響は受けてはいませんが、しかし、すぐ近隣に天下の城下が出現し、諸大名が集住することになったのですから、当然そのことによって蒙った恩恵は大きなものがあったものと考えられます。当時の門前には伏見街道が走っており、そんな地理的条件もプラスに働いたはずです。
はたして、それまで畿内中心であった当社への信仰は、伏見築城によって全国的な広がりを持つようになりました。しかしこの時期何にもまして当社の復興にはずみをつけたのは、秀吉が稲荷大神に深い崇敬をよせたことでしょう。
当社のご利益は出世開運・商売繁盛・・・・・と現世の招福の万般にわたっています。そんな現世肯定的で湿っぽさのかけらもない福々しい霊験は、これまた、明朗闊達で陽気な秀吉の感性とぴったり即応するものであり、秀吉はつとに天正15年(1587)洛中に聚楽第を営んだ折、その邸内にさっそく稲荷社を勧請しています。
ついで天正16年、秀吉は生母大政所の大病平癒を当社に祈願し、この願いを叶えてくれたなら一万石を寄進すると申し出ました。当社ではおおがかりな祈祷を執行しその結果大政所はすっかり本復しました。これによっていっそう当社への信仰を深めた秀吉はその前後から当社の本格的な修復をし、現在の楼門はその折の建立であります。
楼 門
この秀吉の修復工事によって境内諸社殿の整備はいちはやく進み、たたずまいはおおよそ現代の規模にちかいものになりました。
秀吉は応仁の乱から戦国時代にかけて退転した当社の社領に対し、あらためて朱印状をくだして安堵しました。秀吉が認めた社領の石高は計百六石で、この石高はその後も江戸幕府の下で受け継がれてゆきました。
その後完全な泰平の世が出現したため、現世に期待を託す稲荷信仰はますます広がり、稲荷社への参詣者数は年々増加していきました。
慶長19年(1614)角倉了以が京都・伏見間に高瀬川運河を開削し、高瀬舟の運行をはじめました。この舟運はもともと貨物を運搬するのが目的でしたが、当社の初午祭の日に限り、四条小橋から稲荷橋まで、稲荷詣での人々の乗船を許しました。当日それらのひとびとは舟の中に緋毛氈を敷き、飲み食いを楽しみながら高瀬川をくだりました。この一事を見ても当時の稲荷信仰がいかに盛んであったかが如実にしのばれます。
※このコラムは『たくましい民衆のエネルギーに支えられた1200年の歴史』百瀬明治 京都新聞社刊「総本宮伏見稲荷大社」を参考にしました。