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稲荷勧請
今なお益々盛んな「稲荷勧請」の最も古いものと考えられるのに宮城県の竹駒神社(弘仁年中810~824=小野篁公が勧請)や岩手県の志和稲荷神社(天喜5年=1057源頼義、義家が勧請)などがあります。
江戸時代の寛政4年(1792)2月、奉行所より「正一位稲荷大明神神体勧請は、本社以外の他所の者が行ってもさしつかえはありますまいか。それというのもこのたび大北山百姓・善四郎という者の藪に、きつねの窟ができているのを見つけて、土御門家弟子・今村頼母という者が、“正一位豊浦稲荷大明神”を勧請して遣わしたということなので、不審に思ってまず本社に様子をうかがう」と当社祠官宛に連絡がありました。
この照会を受けて、当時の正官五人を含む祠官全員が「一社総集合」を開き、次のような回答書を書き、翌日役所に持参、以降この見解が正当なものとして広く取りあげられるところとなりました。
「稲荷大明神正一位神体勧請の儀は(中略)後鳥羽院建久5年(1194)12月2日行幸のみぎり、『当社は五穀衣食の守護神にて、諸人に尊信せしむべきであって、信心の輩がその所々に鎮祭しているのは、当社の分神である。よって本社勧請の神体には“正一位”の神階を書加えて授くべき』旨勅許くだされましたので、その時以降社司たちは伝来の修法をもって、勧請相授けたのです。その修法は一子相伝であって、門弟等へ伝授したようなことはかつてなく、そのためみだりに他所より正一位神体勧請があったのでは、当社は甚ださしつかえると共に迷惑至極でございます。」(『稲荷社事実考証記』)
建久5年12月2日の後鳥羽天皇の行幸は、祇園社と併せ行われたもので、記録には「稲荷勧請勅許云々」は見出せないのですが、当社祠官の間では、この時に勅許があったという見解が、まさに一子相伝されて来たのです。
上述のやりとりがあった寛政4年(1792)といえば江戸時代も半ばを過ぎ、稲荷信仰は当時の政治・交通・経済の動きにのって、全国津々浦々にまで浸透しつくした観があり、いつでもどこでも、稲荷大神のご分神を祀ることができた反面、先のように野ぎつねの窟が基となって稲荷勧請を行なったり、当社以外の者が勧請を行うなど、正当な稲荷信仰とは違う祀られ方をしたものが多くみうけられます。
こうした流れを踏まえ、古くから当社祠官は、「稲荷大神」はけっして「狐霊」ではなく、稲荷勧請に際してもこの点に留意して、断じて「怪異」におよぶものでない旨の請願書を提出させてから「神璽授与」を行うなど、稲荷信仰の拡充については、細心の注意と重厚な権威をもってあたっていました。
しかし時としてその甲斐もなく、「いなり」と「きつね」との関連は「稲荷大神」とその「神使」の関係であるにもかかわらず、「油揚げ」を使った寿司が「いなりずし」と呼ばれるほど、一種の親近感をもって同じ神霊であるかのように感じられていたことは否定できないようです。
狐と眷属
おいなりさんというと、だれもが反射的に思い浮かべるのは狐でしょう。我が国の神社では、たとえば伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、日吉大社の猿、八幡宮の鳩というふうに、それぞれ固有の動物が神の使いとして尊ばれています。しかし、お稲荷さんの狐は、単なる神使ではなく、眷属といって神様の一族のような資格を与えられており、そのため狐は稲荷神そのものだという誤解も一部の人にもたれています。
お稲荷さんと狐がこのような親密な関係をもつに至った由来については、いくつかの説があります。そのなかで一番よく耳にするのが、稲荷の神が「食物の神」つまり御饌神(みけつかみ)なので、その「みけつ」がいつか御狐(おけつね)・三狐(みけつね)に転じたことによるという説でしょう。あるいは、稲荷神がのちに密教の荼枳尼天と本迹関係を結んだことを重視し、荼枳尼天のまたがる狐がそのまま稲荷神の眷属とされたのだという説も一般に流布しています。
それはそれとして、空海の弟子真雅僧正の著といわれている「稲荷流記」に面白い伝説が記されています。
時は平安初期の弘仁年間(810~24)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、年老いた狐の夫婦が棲んでいました。全身に銀の針を並べ立てたような白狐だったのです。この狐夫婦は、心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていました。とはいえ、畜生の身であっては、所詮その願いを果たすことはできない。そこで、狐夫婦はある日意を決し、五匹の子狐をともなって、稲荷山に参拝し、「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」と、社前に祈りました。すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神のおごそかな託宣がくだりました。
「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」こうして、狐夫婦は稲荷山に移り棲み稲荷神の慈悲と付託にこたえるべく日夜精進につとめることになりました。男狐はオススキ・女狐はアコマチという名を明神から授けられたとのことです。
※このコラムは『たくましい民衆のエネルギーに支えられた1200年の歴史』百瀬明治 京都新聞社刊「総本宮伏見稲荷大社」を参考にしました。