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稲荷社のあけぼの
先の系図によれば、「風土記」に出てくる“秦中家忌寸”は、伊呂巨(具)から数えて九代目に相当し、「賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥3年3月従六位上」と記録されています。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜1名でありましたが、彼の代にその弟“森主”が「祝、嘉祥3年3月従六位下」と記録され、この頃から禰宜・祝の2員制に移行したことがわかります。いわば中家が奉仕していた時期は、中家の譜に忌寸賜姓のことが記されており、和銅4年が記憶されるべき年であったと同様に、稲荷社にとっては重要な時期であったろうことが予測されます。またそれは、稲荷大神に初めて神階奉授がなされたことからかもしれません。この神階奉授のいきさつについては淳和天皇の御代・天長4年(827)正月の詔に、「頃間御体不愈」によって「占求留爾稲荷神社乃樹伐礼留罪祟爾出太利止申須然毛此樹波先朝乃御願寺乃塔木爾用牟我為爾止之弖東寺乃所伐奈利今成祟」(天皇の健康がすぐれないために占いを求められたところ、先朝の御願寺=東寺の塔をつくる材木として稲荷社の樹を伐った祟りであることがわかった)、ということで、「畏天」内舎人の大中臣雄良を遣わして「従五位下乃冠授奉理治奉(従五位下の神階が授けられた)」とあって、まさに大神の御神威が大きく顕れ、以降の勇躍を約束されるような一大展開期であったことがうかがえるのです。
東寺(教王護国寺)五重塔
延暦13年(794)に長岡京から山背へ都が遷されたとは言うものの、初めのうちはその市街地の区画整備がされている程度でした。宮廷が完全に整ってから新京もだんだんと賑わいだしましたが、都の正面玄関に相当する羅城門の東西に建立された「東寺」「西寺」の造営さえも長くかかっていました。東寺の造営が空海(弘法大師)の手に委ねられたのは、大師が大同元年(806)に留学先の唐から帰朝してまもなくの弘仁14年(823)のことですが、この頃から伽藍構築もだんだん軌道に乗り、その工事の途中に、先に述べた稲荷大神のご神威が顕れたのでした。
都が遷ってくるだけでも重大事であった上に、大神のお力が天下に知れわたり、それを畏って神階奉授がなされる。これはまさに一社の重大事として記憶されて当然のことです。“忌寸”の姓を賜った中家の奉仕時期は、ちょうどこの頃でした。伊呂巨(具)が「秦中家忌寸等遠祖」と称されたのと同様、中家も100年ほど後に「秦氏祖中家云々」と良く似た表現で記録されています。天暦3年(949)頃の『年中行事秘抄』という文献には次のように書かれています。
― 稲荷神 ―
件神社立始由慥無所見
但彼社禰宜祝等申状云此神和銅年中始顕坐
伊奈利山三箇岑平処是秦氏祖中家等抜木殖
蘇也
即彼秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭等
依其霊験有被奉臨時御幣相次
延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣
修造始件三個社者
この文には、中家が秦氏祖と書かれていること以外にもう一つ重要な部分があります。それは延喜8年(908)、都が平安京に遷ってから約100年ほど後に、歌舞伎などでは悪役に仕立てられ、菅原道真公の政敵とみなされている藤原時平公によって、初めて三個社の御社殿が造営されたと書かれています。